〜 N0.37(平成15年4月号) 〜

いかがお過ごしですか。寒さもだいぶ和らいできたようで、木々のつぼみも新たなる始まりを予感させるかのように、大きく膨らんできました。ただ、花粉症の私としましては、一年間の中で一番憂鬱な季節でもあり、薬による対処はしているものの、何とかならないものかと気をもんでいる毎日です。
先日社員さん方と共に、横浜の洋館建築群を見学してきました。素晴らしい建築物ばかりでした。その感想と致しましては、やはり、工業化された部品を組み合わすだけの家作りでは、本物の家造りは出来ないな、ということです。深みのある、豊かな空間は、現代の住まいが失っている大切なものを教えてくれました。学びは活かさなければ意味がありませんので、社員の皆さんと次のことを確認しあいました。北澤工務店はまず、手づくりの仕事をもっと増やしていこう、ということです。本物の木を削ったり、本物の土や紙を使ったり、職人さんが手塩にかけて造る家。時間も費用も問題はたくさんありますが、問題は解決するために存在していると捕らえて、この方針だけは見失わず、積極的に取り組んでいきます。
さて、三回目の連載となる日本縦断徒歩旅行です。いよいよ沖縄行きのフェリーに乗り込んだ私は、後戻りができなくなってしまいました。『退路を断つ』、というのは何かを決意する上で、とても重要なことかもしれませんね。身長183センチ、五厘刈りの坊主頭、体重92kgの色白の私は、この後何の手入れもせず、110日後に宗谷岬に着いた時、頭もひげもぼうぼうで、76kgまで体重が減り、真っ黒に日焼けして、白い目だけがギョロギョロしている自分になっているとは、想像もできませんでした。二泊三日の船底二等船室の旅は期待と不安が交錯し、あっという間の移動であったと記憶しています。
大きな船体のフェリーはゆっくりと沖縄県那覇港に着岸しました。フェリーから放り出されると、あとは一人です。船内で出会った方々と別れ、とにかく歩き始めること以外に為す術がありませんでした。歩き始めると、まず日差しが違いました。青い空と、大きなやしの木。大きく広い道路と空には爆音の戦闘機。見たこともないワイドボディーの軍用車の中からは、米兵が黒いサングラス越しにこちらを見ています。なにか、日本とは思えない空気を感じました。最初は意気揚々と歩き始めた私ですが、2kmも歩かないうちに足に異変を感じました。私は高校生時代山梨県の柔道代表のキャプテンです。体力には自信がありました。しかしその当時と比べたら身体はブヨブヨ、何のトレーニングもしてこなかった私に、天罰が下りました。重さ30kgの荷物は肩に食い込んできます。そして新品のウォーキングシューズはあっという間にマメをこしらえてくれました。景色どころではありません。500mずつ、歩いては休み、休んでは歩きました。結局初日歩いた距離はわずか10km。沖縄の青空が恨めしく思いました。まず目標に定めた沖縄本島最北端の辺戸岬までは、まだ遥か120km先です。体中に痛みを感じながら、初日の夜は宜野湾市近郊の海の見える公園を見つけ、テントを張りました。沖縄の夜は不穏な音が響き渡ります。『ダッダッダッダ・・・』射撃訓練の音のようです。平和そうに見える青い空と自然豊かな沖縄、しかし全島の中で相当の割合を占める米軍基地。このアンバランスは、何の事情も知らない20歳の私にとって衝撃的でもあり、否が応でも何かを感じぜずにはおられませんでした。長い夜を越えて初めての朝、起きようとすると、体中が痛くて起きられません。その痛みは、航空高校時代の70km競歩大会を彷彿とさせる、ものすごい痛みでした。しかし、私には歩く以外の術がありません。退路が断たれています。一杯の熱いインスタントコーヒーだけを飲み、またザックを背負い、歩き始めました。実は、こんなふうに書き連ねましたのは初めての経験でして、本当に昨日あった出来事のように如実に思い出されることがたくさんあります。このままではいったい何号まで続いてしまうやら・・・・。当時の日記を掘り出してみたり、写真を見たりしますと、いま自分がやらなければならないこと、自分の原点みたいなものが見えてきます。出会った多くの方々を思い出すたび、熱いものがこみ上げてきます。この思いを仕事にぶつけていきます。ではまた。(字が小さくてゴメンナサイ。ご感想をお待ちしております!!)
今は3月14日(月)13時30分です。実は昨日と今日、私、最悪の状態です。細菌性の腸炎というのにかかってしまったらしく、昨朝は39.2度の熱、そして転げまわるほどの腹痛、こんな経験は初めてです。昨年開院した済生会病院に朝7時に時間外扱いで転がり込みました。しかし、いらした先生が整形外科の先生だったものですから、具体的な処置をしていただけず、脂汗をかきながら9時までベッドの上で転げまわっていました。ただ、優しい看護婦さんが何度となく声をかけてくださって、そのときばかりは痛みが和らぐような気がしたんです。ホント、白衣の天使のように感じました。不思議なものですね。内科の先生に診ていただき、薬をいただいて二時間の点滴が終わる頃にはずいぶん楽になりました。しかし、そう簡単には治ってくれないんです。自宅に戻り、薬のおかげで徐々に熱は下がりましたが、腹痛がなかなか止まらない。今日も休みたいな・・・と思っていたのですが、この『おさむのひとりごと』が本日締め切りらしく、担当者の無言のプレッシャーが更に腹痛を呼ぶのです。観念して今、書き始めた状況です。ご迷惑をお掛けいたし、誠に申し訳ございませんでした。
日本縦断徒歩旅行の続編、と思ったのですが、先も長いことですから、今回は一息つけさせていただきたいと思います。今回は2月28日に桜川村村立桜川中学校で行われた『立志式』のことを書かせていただきます。
私の中学の同級生が同校の教師をしており、2月にリフォーム工事でお世話になった施主様が校長先生ということで、立志式の講演をさせていただくことになりました。演題は『目標を持つことの大切さ〜志を立てるということ〜』で、これまでの自分の生育暦などを写真で追いながらの一時間でした。講演中、何か会場に一体感みたいなものを感じました。最後にSMAPの『世界に一つだけの花』を聴きながら歌詞を目で追ってもらったときには、ご父兄の中にも目頭を抑える姿が多く見られ、またしても、私もグッと来てしまいました。
昨日、そのときの生徒さん方からの感想文が届きました。そのほんの一部をご紹介させていただきます。
・・・私は、北澤さんの講演を聴くまで、『別に夢なんかなくてもいいや』と思っていましたが、講演を聴いた後からは『夢を持とう。そして素晴らしい人生を送ろう。』と思えるようになりました。これから夢を持ったら絶対に叶えて見せます!そして、その夢を叶えるために精一杯の努力をします!・・・私は特に『目標は高いほど問題や障害が多い』という言葉が一番印象に残りました。目標を達成するためにはたくさんの問題や障害があるけれど、それを乗り越えるために努力していく人はカッコイイと思います。なので自分も目標を立て、その目標に向かって努力していきたいと思いました。・・・北澤修さんが言っていた『まぁーまぁーな大人になるな』と言った時、私はまぁーまぁーでいいや、と思っていたことがあります。北澤さんの話を聞いて絶対に『まぁーまぁーな大人』にはなりたくないと思いました。・・・私はいままで、毎日平和でのんびりしていればそれでいいやと思って、新しいことにチャレンジする心を少しずつ忘れてきていたみたいです。何もはじめていないのに、『つまんなーい』となげいていました。『まあまあな大人にならないように』という言葉を聞いて自分はまさに、今までのままで生きていたらそれになっていただろうし、これをきかいに、少し自分を変えてみようと思います。・・・SMAPの『世界に一つだけの花』という曲を聴いて自分はたった一人だけなのだから、比較することは良くないと思いました。今までは、相手の優れているところを比較してしまい、自分はどうだからなどと良くないことを考えてしまいました。でも、北澤さんの話を聞いて考えが変わりました。北澤さんもお仕事頑張って、社員の皆さんも幸せにしてあげてください。
73名からの手紙は14歳の元服を迎えた若者の素晴らしい志が書かれていました。一枚一枚めくるたびに涙があふれてきました。私たち大人は一体何をしているのだろうか、もっと時間を有効に、もっとできることはないのか。そんなことを痛切に感じました。講演をさせていただいて、一番勉強させていただいたのは、他ならぬ私であったのかもしれません。腹痛がまた襲ってきました。皆様、お体くれぐれもご自愛くださいますように。
早いものです、もう5月です。来月で2003年も折り返し地点です。いかがお過ごしですか。
先月号で『腸炎』で苦しんだお話を書かせて頂きましたところ、多くの方より御見舞いの言葉をいただきました。本当に有り難うございました。なにか、『心配してもらえる』『気にかけてもらえる』『声をかけてもらえる』というのは、自分という存在が認めてもらえているようで、本当にうれしいものですね。おかげさまで元気になりました。その影響でなんと今の私は95kg!!!10kgの減量となりました。身も心も軽くなると、発想が前向きになるんですね。ま、105kgの私が10kg減っても『どこが!!???』と言われてしまえばそれまでなのですが・・・・・。
さて、徒歩旅行三回目です。ブヨブヨの身体で、何の経験もないまま那覇港から北に向けて歩き始めました。30kgにも及ぶ荷物が肩に食い込み、履きなれないウォーキングシューズはいとも簡単にマメをこしらえます。マメの下にマメができ、つぶれて血が出て靴下が真っ赤になっていたことを思い出します。淡々と歩いていると多くの方から声をかけられ、様々な経験をさせていただきました。『紅芋』という紫色のさつま芋、地元の人たちはコップでぐいぐい飲み干す『泡盛』、『てんぷら』と呼ばれる甘くておいしいドーナッツ、川で採れた天然の『うなぎ』、豚の角煮の入った『沖縄そば』、子供たちが黙って失敬してきたと思われる『パパイヤ』・・・・・・皆、声をかけてくださった方にお世話になり、ご馳走していただいたものばかりです。そこで聞く沖縄語、そして戦争当時の話や米軍基地のお話は、今も大切な宝物として忘れることはありません。そして歩き始めて6日目の夕方、沖縄本島最北端の辺戸岬に到着しました。
辺戸岬からヒッチハイクで那覇に戻り、仲良くなった地元のカメラマンの方と慶良間諸島渡嘉敷島へ渡りました。人気もなく、サンゴのきれいな浜辺で3日間テントを張り、自分自身と向かい合う貴重な時間となりました。あっという間に時間は過ぎ去り、いよいよ九州です。
フェリーで鹿児島に着くとまず食料の調達をしました。持ち合わせの米もなくなってしまった私が考え出したのは『パンの耳』。パン屋さんに行って『パンの耳ありますか』といって譲って頂くのです。無料か、100円もあれば大量に仕入れることができます。時々サンドイッチの耳などもあり、ハムやレタスのかけらやマヨネーズが付いていて得をした気分になります。『これ豚の餌になるやつだけど、いい??』と言われたりすることもありました。その中で、現在の私の考え方の基本となったとても印象に残っている出来事がありました。いつものように汚い格好でパン屋さんに入っていき、その旨伝えた時のことです。裏に行って大量のパンの耳を持ってきて下さり、『ただで差し上げることは簡単なことですが、貴方の人格を認めたいので10円で買ってください』と言われたことです。ものすごくうれしかったです。心が晴々としました。どうせ捨ててしまうものだからただでもいいのかもしれない。しかしその方はそういう視点ではなかった。私の存在を認めてくれた。現在のカタロ活動のほとんどの催しものが有料となっているのは、その経験が活かされているからです。
九州を歩く頃にはかなり身体もなれてきました。一日40km歩くこともできるようになりました。ちょうどその頃、身体に異変がおき始めました。やたらと鼻血が出るのです。そしてなかなか止まらない。あるときどれくらい出るのだろうかとずーっと下を向いていたら、止めどなく出てきたりもしました。数日間そんな減少が続きましたが、やがて自然と治りました。何だったんだろうか・・・。(次号に続く)
ご案内です。7月24日(木)なのですが、知覧特攻平和会館を設立された元特攻隊員の『板津忠正様』と富屋食堂鳥浜トメ様の次女『赤羽礼子様』を御招きして『志を立てることや命の持つ本当の力』を感じて頂くための研修会を予定しております。詳細は来月のご案内となりますが、是非予定に入れておいて頂けたらうれしいです。ではまた。
6月です。皆様いかがお過ごしですか。このひとりごと、回を追う毎に文字が小さくなっている!!!とお叱りを受けておりますが、私としてはこれでもかなりセーブしておりまして、紙面の都合もあり、本当に申し訳ございませんが、ご容赦下さいます様お願い致します。
日本縦断徒歩旅行連載第4回目です。九州鹿児島から西側を北上しまして、四国へ渡ることにしました。船の移動以外は全て徒歩。黙々と歩いていると、たくさんの方から声を掛けていただくんです。『おーい、車に乗らないか!!』『おい、おい、うちに泊まっていけよ!!!』と。なかでも、とても印象に残った出会いがこの頃ありました。赤い小さな軽自動車に乗っている方が通り過ぎた後、ユーターンしてきて、手動式の窓をぐるぐると開けると『オイ、こっちこっち。これやるから。母ちゃん心配しているだろうから、これで電話してやれよ。それと、火は大事だからな、これもやるよ。じゃーナ。』と言って、さっさとまたユーターンして去っていってしまった無精ひげのおじさん。手に握らされたものは使い古しの百円ライターと、『電話してやれよ』と言ったのに50円玉。(公衆電話は50円玉使えないよなァ・・・・・)と思いながらも、そのおじさんの心遣いが嬉しくて嬉しくて。なにかがこみ上げてくるんです。こんな優しさってあるだろうか。人ってあったかい。人って素晴らしい。決して偏見ではなく、事実として感じたことなのですが、声を掛けてくださった方、泊めてくださった方はどなたも、裕福でいい車に乗って、豪邸に住んで・・・そんな方はいらっしゃらなかったように思います。年季の入った車。古くて小さな家。でも、家族みんな笑顔。あったかいんです。なんか、何不自由なく育った『社長の息子』の僕が忘れてきてしまった大切なものがそこにはあったように思います。
四国に入る頃は、一日に50km歩くこともできるようになりました。ぐんぐん歩き進めていたとき、高知県高知市の郊外で、この旅行で唯一違反をしました。朝、清々しい中を歩いていると、目の前にファミリーレストランの『ココス』。ココスと言えばカスミグループ。カスミグループと言えば土浦。私達の地元が生んだ優良企業。創業者の神林氏の講演テープを聞いてとても感動したことを思い出しました。夢を語れる経営者ってかっこいいなぁ、と。
そのココス、垂れ幕には『モーニングバイキング』と書いてある。確か、380円でした。こりゃ入るしかない、と思い、一ヶ月も風呂に入っていない臭い体で入店。見渡すと、その品揃えがすごいんです。感動ものでした。店員の方も非常に親切で、もう、何日分も『食いだめ』しました。後にも先にもこれ一回だけ『外食しない』に違反してしまいましたが、自分としては満足のいく違反でした。
四国は山間の深いところです。ちょうどV字の谷間に道路が走り、両側には山がそびえる。何であんな高いところに集落があるんだろう、あっちにも、こっちにも。少し余裕が出てきて、肩の力が抜け、徒歩旅行を楽しめるようになってきた私でありました。徳島市まで歩いた後、神戸市にフェリーで渡ります。
前号でお知らせした講演会が決まりました。7月24日(木)13時30分より、つくば国際会議場大ホールにおいて、私の所属する青年会議所で講演会を開催します。ただの講演会ではありません。『翼が教えてくれたもの』と題して、知覧の特攻隊から学ぶ貴重な機会です。講師に『富や食堂』トメさんの次女赤羽礼子様。現在の『知覧特攻平和会館』の資料を自力で集められた元特攻隊員、板津忠正様お二人をお招きします。特攻隊を語る方としては、日本でお二人以上の方はおられないと思います。この講演会は戦争の是非を問うものでも、特攻隊を美化するものでもありません。『生きるとはどういうことなのか』を学ぶものです。飽食の時代に生きる私たち若者は、心の奥底に持つエネルギーを、あまりにも持て余していると感じているのは私だけではないでしょう。もっともっと何かできるはずです。是非この機会に多くの学生や若者に『生きる』とはどういうことなのかを感じていただきたい、そんな熱い演出を含めた講演会を予定しています。どなた様でもご参加いただけます。入場も無料ですので、どうぞお誘いあわせいただきましてご来場ください。ご入場にはチケットが必要です。詳しくは『090−3045−0587 北澤』までお問い合わせください。
『第6回森で遊ぼう』のご案内も始まりました。今年もあの手この手で家族の絆が深まるような企画をしております。お会いできることを楽しみにしております。また長くなってしまいました。ではまた。
草々の葉に落ちる雫がとてもきれいな季節となりました。皆様いかがお過ごしですか。今回は『日本縦断徒歩旅行』の連載をお休みいただきまして、7月24日(木)に予定している事業を詳しくご案内させていただきます。
『翼が教えてくれたもの』〜短い人生を辿った若者たちの真実
私は、数多ある建築屋の中の一人に過ぎないのですが、たった一度のこの人生を、この建築という仕事を通して、その先にある最高の人生、最高の喜びを手にしたいと思っています。命懸けで一つの仕事に打ち込んだら、必ずやひとかどの人間になることができると信じています。でも普段の仕事は楽しいことばかりではありません。失敗したり、大変なご迷惑をお掛けして、劣等感に落ち込むこともあります。つらいことや逃げ出したくなるようなことも多々あります。『命懸けで仕事に打ち込む』に及ばない自分がいるのかも知れません。
そんな日々を送っているときに、私の所属する青年会議所の仲間から、特攻隊の話を持ちかけられました。特攻隊の最大基地であった、鹿児島県の知覧町で繰り広げられた史実から、『生きるということ』をテーマに事業を計画したい、という申し出でした。彼はテレビ番組の『知ってるつもり』に感動し、何の伝もないのに、独自にこの時の主人公のお二人とご縁をつくられました。
『特攻おばさん』と特攻隊員から親しまれた富屋食堂、鳥濱トメさんの次女の赤羽礼子さんは当時女学生で、数多くの特攻隊員を見送ってきました。潔く自らのたった一度の命を、自分の大切なもののために捧げて突撃散華する。その時の一人一人には、一人一人の壮絶なドラマがあります。平和ボケした私たちには到底理解できない世界です。映画『ホタル』の主人公となった宮川三郎軍曹のお話もしていただけると思います。知覧には知覧特攻平和会館があり、1037名の特攻隊員の肖像、遺品、絶筆が展示してあります。拝観のご経験のある方には申すまでもないのですが、
凄まじいところです。その遺品を一件一件収拾されたのが、元特攻隊員の板津忠正さんです。板津さんは終戦の年の5月28日、250キロ爆弾を積んだ愛機に乗り出撃した特攻隊員です。しかし、終戦期の特攻隊員にあてがわれる特攻機はボロボロの機体ばかりでした。『せめて、完全なる機にていきたい』そう書き残した特攻隊員がいるほどです。
そして、板津さんにもエンジントラブルという最悪の事態が発生し、仲間と共に散華するという本懐が成し遂げられず、『生き残る』という辱めを背負うことになります。これは、私たちの想像を絶する屈辱であったと思います。そんな時、特攻おばさんからこんな言葉をかけられました。『板津さん、あなたが生き残った、生きている、ということは、まだあなたには、やり残した事がある。何かやりなさい、という意味があるんですよ。』それからの板津さんは、とりつかれた様に日本中を走り回り、特攻隊員の遺品収集を始めたのです。それが形となって、現在の知覧特攻平和会館があります。
終戦から60年の歳月が流れようとしています。史実がゆがみ、本当のことを知る機会がもうどれだけあるでしょうか。混沌とした世の中、若者の荒廃、行く先の見えない不安の中に生きる私たちが、特攻隊員から『生きる』ということを学ぶことは、大きな意味があると思います。当日は、お二人のご講演のほか、資料映像、遺書、絶筆などを数多く展示いたします。どうか、カタロ通信にご縁のある方ばかりでなく、北澤工務店という枠組みを超えて、是非多くの方にご来場を賜りたいと存じます。




