〜自分の娘に振り袖を着せたような家づくり〜
竃k澤工務店

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おさむのひとりごと
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〜 N0.81(平成18年12月号) 〜

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12月です。師走です。もうすぐ年の暮れです。なんでこんなに時間が経つのが早いんでしょう。いかがお過ごしですか。

 今月は父の話を書きたいと思います。

北澤工務店の創業者である父は、現在会長として私の経営を大所高所から目を光らせてくれています。普段は畑仕事や趣味の釣りを母と共に楽しんだり、孫の世話に忙しい日々を送っています。

父は、現役の第一線からは遠ざかったものの、自分の心血を注いで築き上げてきた北澤工務店をひと時も脳裏から離したことがありません。その証拠に、私が実家に帰るとすぐ、お客様はどうだ、現場はどうだ、売り上げはどうだ、職人はどうだ、社員のみんなは元気にしてるか、と矢継ぎ早に言葉が飛んできます。

『二代目』 というのは、概してひとりで大人になって、自分の力で会社経営をやっていると思いがちです。私もそのひとりのようです。だから、父に上記のようなことを問われるのが苦手です。まるで尋問を受けているかのようにさえ感じてしまいます。その気持ちは私の目つき、態度、表情から如実に父に伝わっていることさえ承知しているほどです。5分足らずの場所にある実家も足が遠のいてしまいます。

更に以前の私は、父が会社に来てその場を取り仕切られるのがとても嫌いで、できれば会社には来て欲しくないなぁ、という感情もありました。二代目社長の私としては、父にライバル心もありましたし、でもやっぱり実力が全然違いますから、それを見せ付けられるようで避けていたんでしょうね。

父もそれを察知していたのか、次第に会社には来なくなってしまいました。居心地も悪かったのでしょう。

でも、会社を思う気持ち、社員の皆さんを思う気持ち、そして私を思う気持ちは、誰もがいつも感じていました。それが、野菜となって届き、旅行のお土産となって届き、先日はやわらかくておいしいお肉のかたまりとなって一人ひとりに届けられました。だから、北澤工務店の社員は皆、父のファンです。私がやきもちを妬いてしまうほどです。で、誰からともなく先日 『会長のお誕生会をしよう』 ということになりました。

ん。当時を振り返りながら会話が弾みました。あまり口に出したくはないような自分の生い立ちや、大工見習いの頃の話、創業当時の話や苦労話、施主様との数々のドラマを話してくれました。

私は何度も何度も聞いた話なのですが、なぜか今回はとても新鮮に聞くことが出来ました。

社員の皆さんも同じです。今の北澤工務店しか知らない、或いは私の口からしか聞いたことがない 『北澤工務店の生い立ち』 の話に、社員の皆さんは時に涙し、時に大笑いし、釘付けになって聞き入りました。

父の正面に座った私。仕事の話をする父の姿は、正直なところ、『かっこいい!!!』 と思いました。目が爛々とし、声には自信と誇りがみなぎっていました。人はやはり、仕事で輝かせてもらっているのだと実感しました。

5年前。父の仕事、立場を奪った私。対立心をずーっと抱いてきた自分が情けない。

送迎の車の中で、『ありがとうな、おさむ。ありがとう』 を連発していた父。じわーっとあたたかい心になりました。

そして、帰ると母が出迎えてくれました。ニコニコ笑っていました。北澤工務店のドラマには母の存在が欠かせません。

・・・・・この日の父の話がとても面白かったので是非これは皆様にお話したい。そんなことで、次回新年号から何回かにわたって創業者北澤孝の生い立ちや創業時の出来事、お客様との感動的な関わりをこのひとりごとで書かせていただくことにいたしました。

二代目経営者の仕事には、変えなければならないことと、変えてはならないことがあるそうです。もしそうであるならば、今回のこの話の中にこそその答えがあるのだとつくづく感じたのでした。

今月は、毎年恒例の『年末巡回アフターサービス』に訪問させていただきます。今年で25年にもなります。これも父が『新しい年を、戸障子が気持ちよく動く家で迎えてもらいたい』という願いから始まったことです。OB施主様で、何か不具合があるようでしたらば事前にお知らせいただければ、優先的に対応させていただきます。

そして次月は2007年!!新しい年を、明るく、さわやかに迎えたいものですね!!ではまた。

 新年あけまして おめでとうございます。毎年書いていることなのですが、『新年』というのはいいものです。リセットボタンのようなものです。初夢、書初め、出初式、・・・・『今年の抱負は・・・』 『今年こそは・・・』 と期待と希望を抱く季節です。私も今年は秘めたる大きな夢の実現に大きく踏み出す年です。皆様にも是非ご協力いただきたいことなので、その節はよろしくお願いいたします。
 
12月号の『おさむのひとりごと』で父のことを書いたところ、OB施主様を中心として大変喜んでいただきました。これまではなんとなく父を遠ざけ、話題にする場合でもなんとなく作為的であったような気持ちがありました。

今年で私も40歳。子供たちもずいぶん大きくなってきました。建築のことも、経営のことも少しだけわかってきたような気がします。そうすると、世の先輩方が言われてきたように、僕も感じるわけです。親になって初めて親の気持ちがわかる。社長になっていろいろ失敗して先代の気持ちがわかる。『あー、親父もこんな気持ちだったのかなぁ』『あー、あんなこと言っちまった時があるけど、つらかっただろうな、寂しかっただろうなぁ』 と。

 そんなふうに思い始めるとほんと不思議なくらいタイミングよく、あんなに嫌だった親父の言葉が和らいで聞こえるんです。いつもひたいにたてじわ寄せていたのが笑顔に変わってくる。粗探しされてばかりいたのに『心配してくれているんだなぁ』と感じる。

 私は毎月、社員の給料袋に簡単なお手紙を入れています。いつも仕事がんばってくれてありがとう、の気持ちをこめて。でも会長にはこれまで一度も入れたことがありませんでした。単なる明細だけ。
 なんか、最近気持ちが違うんですね。書きたくなって仕方がなくなり、筆を取りました。さて、宛名を『会長へ』とかこうか、『親父へ』と書こうか・・・。

 『おとうさんへ  いつも僕や会社を見守ってくれて、ありがとう。先日のさつまいもも、全部お客様に食べていただきました。これからも僕を見守っていてください。 おさむ』
 
これを読んだであろう父は何も言ってきませんが、親子はつながっていますからね、耳を澄ませばみーんなわかり合える。

 そんなこともあり、今年は父の生い立ちの連載を書いてみたいと思います。ただ昭和の激動の時代、父も例に漏れず大変な環境でした。それらを忠実表現するのは大変難しく、一冊の本になってしまうくらいです。なのでここでは私が小さい頃から 『耳にたこが出来るほど』 聞いてきたことを中心に書いてみます。

父は昭和10年11月1日に、現在の龍ヶ崎市半田町の彦右衛門に生まれました。いろいろな家庭事情により、『子供が生まれない身体』ということを歓迎されて嫁に来た母たまは、おなかにこぶが出来た!これは大変な病気だ!ということで父菊治と共に東京の病院に診察に行きました。
 帰りの電車では地に足が着かぬほどの喜びで帰ってきたそうです。それが母たまの悲願でもあり苦難の始まりでもあった妊娠でした。やがて父が誕生。

 小学校時代は級長を務めるリーダーでした。OB施主様でもあり当時の担任のT様にお邪魔すると、当時の父の立派な姿をありありと語ってくださいます。当然進学をし、華やかな学生生活を送れるはずでした。

 父菊治は、誰もが認める人格者でした。立派な口ひげをたずさえ、火鉢の前に座り、キセルパイプを咥え、悪いことをすると 『貴公、ここに座れ』と有無を言わせぬ存在であったそうです。ある時はこじきを座敷に上げ説教をし、数年後そのこじきが 『今日は物もらいに来たんじゃない。おじさんの話を聞きたくて来た』 という、そんなこともあったのだそうです。しかし、農地開放政策の後、地主であった彦右衛門家も労働をしないことには食べていくことが出来ません。そんな時、人生を左右する出来事が発生しました。父の義兄であり長男虎彦の死です。跡取り息子の死に絶望の淵に立つ父菊治。雨の日、立派な口ひげに鼻水を凍らせて農作業に励む父菊治の姿に強烈な衝撃を受けた父は『はやく親父を助けてやりたい。はやく力になりたい』と湧き立つ感情を抑え切れなかったと言います。

 そんな時、生涯尊敬する父菊治からの一言で、人生が決まっていきます。『おまえは、手に職をつけろ。大工になれ』 進学したい気持ちも、もっと遊びたい気持ちもあったと思います。でもそんなことよりも数倍、父菊治を尊敬する気持ちが強かった。そして、中山棟梁のもとに弟子入りしたのです。・・・・・つづく。

 今年も一年、たくさんの出会いを一緒に楽しんで行きたいと思います。そして何よりも、ご家族様の笑顔の絶えない一年になることを、心より祈っています。

〜 N0.82 (平成19年1月号) 〜

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穏やかなお天気が続きます。いかがお過ごしですか。やはり暖冬なのでしょうか、異常気象なのでしょうか。あたたかな日が続きますね。

 新年を迎えるにあたり、私は 『大晦日の夕日に手を合わせる』 ことを実践しているのですが、その風景も最近はとても多くなったように感じます。近くにある龍ヶ崎で一番高い山 『たつのこ山』 では、その日、多くの人々が夕日を仰いでいました。初日の出という始まりも肝心ですが、大晦日の夕日に手を合わせるという締めくくりは、もっと大事なように感じています。

 先月から父の連載を始めさせていただきましたが、なんとなくなんですが、書いているとふわーっと幸せな感じに浸れるんですね。まだまだ元気でがんばってもらわなければならない父ですが、その父の人生劇場を文章化できるというのは、ほんとありがたいことです。
 『あのときの気持ちはー、、、なんと言うかなあー、、、、 あうん
呼吸って言ったらいいのかなあー、、、、おれ(父)もおやじ(菊治)も、一言も言わなかったんだけれど、全部分かり合えたんだ。だから高校へ行きたい、なんて一切思わなかっ・・・。』

          当時、職人の丁稚に出すというのは、『口べらし』 の意味合いが濃かった。丁稚に出せば、食事の心配をする必要がなくなるのだ。まして、彦右衛門は長門地区では財産家とされていたのだから、その家から丁稚に出したというのは、多くの話題を呼んだことは想像に難しくありません。本人曰く、『ワイドショーのようだったかもなぁ・・・』 と。

 徒弟制度が色濃く残っていた当時、親方の存在、兄弟子の存在は厳格で、有無を言わさぬ関係だったそうです。丁稚の役割は大工仕事とは程遠い仕事ばかりで、親方の子供の子守や洗濯、「めしのり」と言われるご飯粒をすりつぶす木工用の接着剤作りが日課でした。この「めしのり」は今で言うボンド。すりこぎ棒のようなもので透明になるまで練るのだそうですが、これがなかなか大変。その接着力は抜群で、一度くっつくと木がむしれてしまうほどだそうです。

 通り沿いの現場では、同級生が高校へ楽しそうに自転車で通りすがります。『よッ、き・た・ざ・わ!!』 なんて声をかけられるのが最高につらく、その瞬間見えないように隠れることもしばしばだった

とか。そのころから『よっしゃ。おれはやつらには負けねえぞ!!!』という反骨精神が芽生えたのだそうです。

の大棟梁でした。彦右衛門とは縁戚にも当たり、父菊治ともとても親しい間柄でした。そんなこともあってか、兄弟子たちから逆恨みを買い、今で言うイジメに合ったこともありました。父菊治は、家柄からして断腸の思いで息子を中山棟梁の下に丁稚入りさせたわけです。その息子がイジメに合っている。母たまも居ても立ってもいられない。『窮鼠猫を噛むとはああいうことかと思うほど、一緒に食事をすることも許されなかったばあちゃん(たま)がおやじ(菊治)にくってかかったんだよ。なんとかしてやれ!!と。』

菊治は中山棟梁の元に行きました。対面する二人。お互いがお互いのことを知り尽くしています。口ひげを生やした菊治は涙を浮かべている。中山棟梁も菊治の心中察しあまって余りあるものを感じている。その二人の会談は無言のうちに握手だけして分かれた、そんな出来事もあったのだそうです。

 年月が経ち、少しずつ大工仕事にも馴れ、力の入れ加減もわかってき始めたころ、中山棟梁から自分が丁稚のころに親方から教えられた言葉を父に聞かせました。

『ヤロぉ、よく聞いとけ。家づくりってのはな、娘に晴れ着を着せてやるような気持ちでつくるんだ。いいか、そういう気持ちで仕事をすることを忘れるな。』

これが北澤工務店の家づくりの哲学となっている棟梁口伝 『自分の娘に振り袖を着せたような家づくり』 です。その極意は 『バランス』 です。内面と外見のバランス。たてと横のバランス。費用と効果のバランス。色のバランス。。。バランスを意識した家づくりであることが大切であるという教えです。

そういう意味からすると、 奇抜性や特異性、流行が優先されている感じがします。何十年と共に過ごしていく家ですから、流行を超えて、時代を超えて、普遍的なデザイン、価値、つまりバランスが求められているのだと思います。

 やがて19歳となった父、またしても局面にぶつかります。父菊治が急逝してしまったのです・・・・・。
ここから先はまた次号で。
 
2月は、ぽちゃぽちゃミセスの茶話ランチや、実践的家づくりのためのミニミニ見学会など、企画が盛りだくさん。ぜひご参加ください。

〜 N083(平成19年2月号) 〜

昨年末から父のことを書き続けてきましたが、今月号はちょっと休憩して、ある現場でのドラマを書きたいと思います。
 ある施主様が道路建設による移転のため、家を新築することになりました。田舎暮らしのためアパートでの仮住まいではなく、不自由ではあっても仮設のプレハブで生活をしていただくことになりました。
 思い出が一杯の旧家を取り壊し、擁壁工事、土盛り、基礎工事、上棟・・・と順調に進んでいたある時。息子さんが見えて、折り入って話がある、とのこと。
 それは施主様、つまりお父様の癌が再発し、もはや末期で余命2ヶ月と診断されたのだそうです。家族は、本人に知らせることをせず、無理な抗がん治療をすることなく、静かに看取っていきたいとの方針を固められました。しかし家に帰ってくるとしてもプレハブ小屋しかありません。暖冬とはいっても真冬の寒さは厳し過ぎます。最期の地としても悲し過ぎます。けれども現場はまだまだ家の形を成していません。さて、どうするか。
 職人一同招集して現状を話し、まずは一部屋でもいいから完成させよう、トイレとお風呂くらいは使えるようにしよう、一人の人間の最期の場所としてふさわしいものとなるよう、全力を傾けることを決心しました。少しの時間でもいいから、私たちが造った屋根の下で寝泊りしてもらい
い。少しの時間でもいいから僕たちが造った屋根の下で家族の絆を分かち合ってもらいたい。 
 その後、施主様の癌の進行は甚だしく、年内には食道がふさがってしまうと診断されました。放射線治療も12月22日で最終とのこと。ますます職人たちが一丸となって、通常では考えられないような段取りの仕事となりました。大工さんは休み無しで、連日夜8時までがんばってくれました。左官屋さんも、電気屋さんも、畳屋さんも、建具やさんも、設備やさんも、サッシやさんも、みんなよく動いてくれました。やがて足場が外され、外観上は完成です。そして和室二間とトイレ、お風呂場だけは使えるようになりました。それ以外は手付かずの現場です。
 ただその頃、、、、、病院にいる当の施主様は、『俺はよー、あだらしい家なんかにゃ、キョーミねぇーんだ。生まれ育った家が壊されっちったんだもんよー・・・・。』 とおっしゃっていたそうで。。。
 しかし無理無理息子さんの説得で、『一泊だけ』 ということで12月31日に帰ってくる事になりました。早速その和室には介護用のベッドが置かれ、コタツが敷かれました。そして、以前から施主様が欲しがっていた薄型の液晶テレビもその日の3時に取り付けられました。まるで新築の家そのものです。
 病院の車で搬送されてきた施主様。新しい家に横たわり、大きく開かれた窓を開けると、生まれ育った田んぼの風景が広がります。施主様はさすがにやせ細ってしまっていますが、僕が声をかけるととてもうれしそうに 『いやぁ、世話かけちまったなぁぁ。いやぁ、、、よぐでぎだよ・・・・・』 と言いながら、テレビのリモコンのボタンを押している姿がとても印象的でした。

 『新しい家より昔の家のほうがいい・・・・』 と言って外泊を拒んでいた施主様も、居心地の良さと家族の愛に包まれて『帰りたくない・・・・』とポツリ。そして、一泊ではなく、二泊もしてくださることになりました。我々にとっては、何よりのご褒美です。
 その数日後、病院に戻った施主様は家族に看取られ、静かに息を引き取られました。 私は職人一人ひとりに電話をしました。『河崎さん、さっき施主さんが亡くなったよ。でも河崎さんありがとう。ほんとよくやってくれたよ。おかげで年末年始には2日間も泊まってくれたんだ。ほんとありがとう』 『え〜〜っ!!泊まってくれたんですかぁ!!ありがとうございます。うれしいです。がんばった甲斐がありました・・・・・』!!!まさか、『ありがとうございます!!うれしいです!!』 なんていう言葉が返ってくるとは思いもしませんでした。その言葉は、僕に発しているのではなく、仏様に発しているのでしょう。思わず胸が熱くなりました。
 お通夜では、棟梁が職人代表で式に参列しました。その棟梁と会場を出たとき、故人の奥様がいらっしゃいました。その奥様は、建築の現場がどういう状況で、どのようにして部分完成したかを一番よく知っています。それまでの緊張もあってか、あわただしそうな表情をしていた奥様が、棟梁の顔を見たとたんに、泣き崩れました。
 『あだらしい家に、二晩も、泊まってくれたんですよぉ〜。棟梁さん、職人さんが、、、がんばってくれたから、、、、、、ほんとに、、、ほんとに、、、、、、。』 喪主である息子さんも、嫁に出た娘も、棟梁のもとに来て、泣き崩れたのです。
仕事の本質は、金儲けではない。人様の役に立つことだ。と、深く深く、心底感じた瞬間です。施主様、ありがとう。安らかに。永遠に。

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〜 N0.84(平成19年3月号) 〜

 文明の発達によってか季節感がなくなって久しいですが、今度は季節そのものが『季節感』がなくなってきてしまっているようですね。あったかい冬でした。先日子供たちから質問されました。『ねえ、ねえお父さん。地球温暖化で水がおへそくらいまで増えちゃうんだって!!ほんと???』とにかく大変な時代です。いかがお過ごしですか。
 先月号のひとりごとには格別のご感想を頂戴しました。特に、『龍ヶ崎市 カタロ通信愛読者』 様からは、熱いものがこみ上げてくるほどのご感想を頂戴し、感謝に耐えません。匿名のため返信もままならず、紙面にてお礼を申し上げます。これからも私共を見守ってください。
 さて今月は、創業者である父の半生記第3回目です。
 『娘に晴れ着を着せてやるようなつもりで家を建てなさい』と、中山棟梁から指南された父。いよいよ意欲を持って仕事に励み始めた19歳のとき、運命の出来事が起こりました。父菊治の急逝です。
 頼りにしていた兄虎彦に先立たれ、今度は生涯尊敬していた大好きな父菊治が亡くなってしまったのです。やがて先妻の兄弟との間に複雑な関係が生じていったのは、考えるに難しくありません。
 その後の父は大工仕事をしながら農業を営みました。彦右衛門は長戸地区の中でも多くの田んぼを所有していましたから、耕地整理や青年会でも父はその存在を発揮していくようになりました。
 29歳のとき、彦右衛門から母、妹弟と共に分家。様々な試練を乗り越えて現在の住所に転居しました。そして30歳で6歳年下の母光江と結婚。(この時の物語だけでも相当書けそうなのですが!、、、、、残念。今回は割愛しなければなりません!)
 兄、そして私が生まれ、メキメキと腕を上げていった父に、周囲から独立の誘い話が多く寄せられるようになりました。しかし、世相を敏感に感じていた父
(ここがすごいところです!)は、『これからの大工は個人大工ではだめだ!』という信念があったということです。
 昭和45年、父35歳のとき、周囲の大工さんに率先して組織化の話を持ちかけ、有限会社共栄建設を設立し、その代表取締役となりました。
 彦右衛門の息子が独立したということで、実に驚くほどの受注の連鎖が続きました。そのときの話を父はいつも『親父(菊治)の徳のおかげなんだ。俺はなにもしなくても仕事を頼まれたんだ。「菊治さんの息子さんかぁ。菊治さんには本当に世話になったんだよ。うちの家を頼むよ」って。』と話してくれます。
 私の記憶の中にも大勢の大工が年中出入りし、酒を飲み、けんかをし、華やかで、賑やかだった当事を如実に覚えています。うなぎ登りのように成長していった共栄建設。しかし、またしても困難が訪れました。 ある農家の入母屋造りが無事に上棟しました。盛大に上棟式が執り行われ、五色の旗がなびき、たくさんの餅がまかれました。盛大な宴会の後棟梁送りまでしていただき、自宅でもまた、母が切り盛りしたテーブルには、ずらりとてんぷらや刺身が並び、誰もが活気の内に酔い明かしたのだそうです。
 翌日。。。。。。。。。。。。。。あんなに大勢いた大工が、一人も出社してこない。『愕然』とはこのこと。。。一夜にして、共栄建設は解散になってしまったのです。
 ここからは次号で。
 
 皆様に大変お世話になってまいりました社員の石原茂子が、この度定年を迎え、退職することになりました。皆々様方には本当にお世話になりました。退職後も北澤工務店のライフアドバイザーとして、様々なご相談に対応してくださるそうです。今後とも相変わらずお付き合いいただきますよう、ご報告とお願いを申し上げます。

〜 N085(平成19年4月号) 〜

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